歴史の法廷

ちょっとジオっぽくない話題。

天下り先では無いにせよ、独立行政法人に務めていて、尚かつ科学を生業としている者として、一連の事業仕分けにおける科学技術予算の扱いは他人事ではありません。というか、独法はゼロベースで見直すという話もあることですし。

その中で、私の感じていることの半分は、野依さんがいってくれました

歴史の法廷に立つ覚悟があって言っているのか

その通りだと思います。
で、残りの半分は5号館のつぶやきさまの、飢えた子の前で科学研究は有効かの最後の2つの段落で指摘されています。特に、

将来の日本を支えるために必要な大学と、それを支える最低限のインフラと教育研究を復活させることにならば、多くの国民は多少の飢えはがまんして賛成してくれる、そのくらいの支持を得られないようなら大学は一回つぶれるしかないでしょう。

は、まったくもってその通りだと思います。

きっと、今、私たちは歴史の法廷に立たされているのですよ。
他人を弾劾し、歴史の法廷の被告席に立たせるならば、同じように自分も歴史の法廷の被告席に立たされることを覚悟しなければならないと思う。今、「多くの国民は多少の飢えはがまんして賛成」してくれないとするならば、それは、我々が歴史の法廷から、有罪の評決を受けたということになるんじゃないかと思う。

事業仕分けそのものよりも、それに対する国民の反応は、それくらい重要な意味を持つものだと感じています。