地図とメディアは不可分なのか? 〜物語を始めるために

ちずらぼのちずらぶさんの新しいデバイスと地図を読んで、激しい違和感にとらわれています。

ユーザインターフェイスの問題と地図のあり方は本来別問題で、突き詰めていけば地図の本質は何も変わらないように思う。
これはこの十年くらいの間に各種地図サービスが普及するごとに感じていたことなのだが。

利用シーンにおける新しい可能性を議論することは大いに結構なこと。
だけど地図製作サイドが本来やるべきことを見失ってしまえば本末転倒。

見やすい地図。
きちんと更新がされている地図。
カートグラフィーの真価が発揮されるのはそこなのではないか。

と書かれていますが、果たしてそうなのかと非常に疑問に感じています。

「ユーザインターフェイス」、「デバイス」という表現をされていますが、本質的には「空間情報」を伝達するための媒介、言い換えれば「メディア」と「地図」との関係に帰着すると考えます。
果たして、伝える媒介である「メディア」が変わっても「地図」の本質は変わらないのでしょうか?


唐突に例え話になりますが、「物語」を考えてみたいと思います。
ある物語を伝えるとき、その媒介となるメディアは様々なものがあります。
小説もあるでしょう。テレビドラマも、映画も、舞台もあるでしょう。また、音楽により物語を伝えることも可能でしょう。
それぞれのメディアで語られる「物語」の中身は同じだとしても、その本質は本当に変わらないのでしょうか?

決して、そんなことはないです。たとえば綾辻行人氏の殺人鬼奈須きのこ氏の空の境界にみられる「入れ替わりのトリック」は、「小説」というメディアだから可能だったものであり、他のメディアでは再現が難しいと考えられます。しかもこのトリックは作品自体に深く関わっており(特に、殺人鬼においては)、「物語」の本質をなしています。

「地図」も同じように、「メディア」や「デバイス」や「ユーザインターフェイス」が変わることとにより本質的な変化を求めらると思っています。
基盤地図情報を例にするならば、紙媒体の「地図」として表現するならば道路縁が重要かも知れませんが、デジタルな「地図」での利用を考えれば道路のネットワークの方が重要になります。
今後、デジタルネイティブな「地図」を整備するのであれば、それは「見やすさ」などは関係なく、デジタルに、ユニバーサルに、検索可能であることが求められるのではないでしょうか。


なお私はここで、「地図」を「物語」に対応させています。そもそも「地図」は「紙」という媒体にとらわれないという立場です。
そうではなく、「地図」を「小説」に対応させる、すなわち「メディア」と「物語」の統合体として定義するのであれば、確かに「地図」の本質は変わらないでしょう。

ただそうであれば、新しいメディアが持っている可能性を失うのではないかと、危惧しています。